おこもりさんも大海の夢を見る

諦めず、焦らず、時に倒れても海を目指して、ほふく前進する引きこもりの雑記ブログ

向日葵の触媒 / 怖い話(フィクション)

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夏の暑さが戻ってきて、日向を数分も歩けば額から汗が垂れてくる。

1998年9月中旬、東京の残暑は厳しかった。

不思議な話を蒐集する仕事をしていた僕は知人の紹介で、M病院の精神科閉鎖病棟に入院しているK氏の話を聞きに行った。

 

その病院の建物は古く、入り口には体格の良い警備員が微動だにせず立っており、私が彼の横を通って中へ入る際にも、身動ぎひとつしなかった。

診療時間外だったためか待合室には誰もおらず、外の暑さが勘違いだったかと思われるほど、空気が冷んやりとしていて、それが何故か重い。

受付は鉄製の檻の中で、灰緑色の事務服を着た女性が座っている。

大きな声を出してはいけないように思えて、僕はボソボソとその女性にK氏に会いたい旨を伝え、差し出された紙に名前を書いた。

受付の女性は僕の顔を見ることもなく、最小限の言葉で病室の番号と行き方を抑揚のない調子で案内した。

要所要所に入り口と同様に警備員が立っており、窓の鉄格子と相まって静けさの中に物々しさを感じずにはいられなかった。

 

K氏は、ここに入院して40年ほどになるという。

当時二十代だったというから今は六十代であるはずだが、会ってみると八十歳を超えているように見えるほど老いていた。

彼は「今日は体調が良いんです」と言って笑ったが、痩せこけてシワだらけの顔は泣いているように見えるばかりだった。

当たり障りのない会話をしながら、僕はK氏が件の話を始めるのをテープレコーダーを回しながら待った。

「ああそうだ。向日葵の話でしたね」

そう言うとK氏はカップの水を一口飲んで咳払いし、滔々と話し始めた。

 

 

場所については説明できかねます。

道も無いような場所ですので、何とも言いようが無いのです。

尾瀬の北側の辺りと記憶しています。

そこはあまり知られていない森の中の小さな原っぱで、たまたま迷い込んだということでもなければ辿り着かないとの噂でした。

誰の所有地なのかは分かりませんが毎年夏も盛りになると、その原っぱ一面に大輪の向日葵が数百か数千ほど見事に咲くというのです。

しかもそこの向日葵の花は赤みがかっていて、凄絶な美しさだとのことでした。

写真家を目指していた私は、その森の中の向日葵畑を撮影したいと、情報を探していました。

そうして遂には、行ったことがあるという人と会うことができたのは1958年の春のことでした。

 

その人、Yさんはプロの写真家で、一度その向日葵の群生を写真に収めたとのことで、何度か手紙をやりとりした後、私は彼の郊外にある自宅を訪ねました。

確か7月上旬頃だったと記憶しています。

 

Yさんは私より十ほど年上の方でしたが独身で、縁側のある一軒家の自宅に母親と二人暮らしとのことでした。

野生動物や風景などを主に撮影しているからか、彼の長身の体は引き締まっており、日焼けした顔は始終笑顔で、いわゆる好男子でありました。

私たちは縁側で彼の母親が淹れてくれた冷茶を飲みながら少しの世間話をし、離れにある彼の作業場で彼が撮影した件の向日葵の写真を見せてもらうことになりました。

 

彼が5年前に撮ったというその写真は六つ切りで、これはB5版くらいの大きさのことです、その写真はまるでダメでした。

ひまわりが咲き始めの頃で、所々に黄色い花弁が見えるものの、概ね葉っぱの群生でしかなかったのです。 

しかし、森を背景に広角レンズで撮られたそれは、花が咲いたなら見事な物になること間違いなく、私は撮りたい気持ちがいよいよ昂まりました。

「花が咲いていないけれど、これは8月中旬に撮ったものなんだよ。尾瀬の北の山の中で気温が低いからか、ここの向日葵は咲くのがかなり遅いようなんだ」

Yさんの言葉に私は驚きました。

「場所を正確にご存知なのですか」

「それがねぇ」

Yさんは軽くため息をついて続けました。

「この後何度も行っているし、僕は山には慣れているのだけれど、どうにもスッキリ辿り着けないんだ」

「ああ、でも昨年の8月下旬に行った時には、運よく辿り着いたのだけれど、花どころか茎まですっかり枯れていてね、撮ってはきたけれど現像はしていないんだ。だから今年はお盆終わりくらいに行こうかと思っているところだよ」

私は少し訝しく思いました。

「向日葵って、大抵は2週間くらい咲いていますよね」

「それ、それなんだよ、君。ここの向日葵がなかなか撮れないのは、行きにくい場所な上に、花がすぐに終わってしまうからだと僕は思ってるんだ」

「そんな品種の向日葵って、ありましたっけ」

「いやそんな品種は知らないし、それに僕の写真のこの向日葵、よく見かける大輪のものに見えたんだ」

写真をよくよく見ても、確かにYさんの言う通り、普通の向日葵にしか見えません。それに、チラチラと見える花弁が噂のように赤くもないのです。

「花弁の色も普通の黄色ですね」

「段々と色が濃くなって、完全に開くと赤みがかるんじゃないかな。もしくはガセネタかもしれないね」

「他の人の写真をご覧になったことがあるんですか」

「五、六人くらいかな。でも、どれも咲く前だったり、枯れた後だったりするんだ。咲いている写真を撮った人の話は、業界でも聞いたことがないんだ。それに……」

Yさんは少し言い澱みました。

「K君、君は場所が明確じゃなくても行くつもりかい」

「ええ、僕も山には慣れていますし、花が赤くなくとも撮ってみたいので」

「それじゃ、一応言っておこうかな。胡乱な噂話に過ぎないし、僕自身信じちゃいないのだけれど、あそこへ行くと言って行方不明になった人が何人かいて、地元の人たちの怪奇話になっているんだ」

怪奇話なんて、彼の口から出るとまるっきり怖くありません。私は笑って言いました。

「そんな怖い話があるんじゃ心細いですから、今年Yさんが行く時に同行してもいいですか」

Yさんも笑って承諾してくれました。

その後、Yさんの妹も同行することになり、三人でYさんの車で登山口を目指すことになったのです。

 

Yさんの妹は私と同じ年頃で、自分を山女と言う割りに細身の色白で、むしろ一日中家の中で詩集でも読んでいるような、雰囲気のある女性でした。

「色が白いのは、去年の秋から一度も登ってないからなの。仕事でずっと屋内にいたからもう限界ってわけ」

そう言って彼女はきゃらきゃらと笑いました。

「それにね、いつもは20キロの荷物背負って、南アルプスとかにも登るんだから。あたし結構たくましいの」

「そうだな、お前よりたくましい男を探すのは大変だもんな」

Yさんが茶化して私たちは笑い、例の怪奇のことなど忘れて道中は始終楽しく過ごしたのです。

私たちは一人として怪奇話など信じていませんでした。

 

登山口の駐車場に車を停めて、私たちは山小屋を目指して登り始めました。

Yさんの話では、ひまわり畑の場所は山小屋から尾瀬へ向かう途中で道を外れ、去年は森の中を三十分くらい歩いて着いたということでした。

道のない場所を三十分ということは、登山道からさほど離れていないということで、簡単には辿り着けないという話を私は不思議に思いました。

富士樹海だってその程度なら迷わないように思えたのです。

 

私たちは予定通り山小屋で一泊し、翌朝尾瀬への道を歩き始めました。

小一時間歩いたところで、Yさんは樹に黄色い蛍光塗料が塗られたビニール紐を結びつけ、森へ入って行きます。

私たちは紐を掴み、一列に並んで後に続きました。

足下には枯れ葉が積もり、その下が腐葉土になっているのか、ふかふかとして歩きにくくはありましたが起伏は少なく、こんな場所で行方不明者が出るなどと信じられませんでした。

怪奇話を作るなら、もう少し現実味のある場所を選んだ方が良いのではないかなどと、この時私は考えていました。

 

Yさんは何度か方向を変えて探していましたが、2時間歩いてもそこは見つかりませんでした。

私たちは休憩がてら早目のお昼を食べ、更に2時間歩いて見つからなかったら、元の登山道へ戻ることにしました。

森の中は夏も盛りだとは思えないほどに涼しく空気が澄んで、私は体の隅々まで浄化される心地でしたので、ひまわり畑が見つからなくても来た甲斐があると思っていました。

しかし、休憩後に歩き始めて二十分程経った頃、

「あ、この先だ」

Yさんが振り返って私に言いました。

「一度で来れるなんて、君はついているね」

「兄さん、もったいぶらないで早く行こう」

私も同感でした。

天気が変わらないうちに写真を撮りたかったのです。

私たちはいそいそと明るい方へ向かいました。

 

森に囲まれたそこは極狭い原っぱで、眩しいほどに大輪の黄色い向日葵がぎっしりと咲いていました。

樹々の緑を背景にした向日葵の群れは、それはもう圧巻で、私はすぐさまカメラを取り出して、夢中でシャッターを切りました。

Yさんも気持ちが高揚しているようでした。

最初の興奮が落ち着いたところで、私たちはお茶にすることにしました。

そうして私たちがレンズを交換したり、フィルムを入れ替えたりしている間、Yさんの妹はお茶を片手にスケッチを続けていました。

「ねえ、あの辺りで何かが動いている気がするんだけど」

彼女が不安気に言ったので、私たちは手を止めて、彼女の指差す方を見ました。

私の目には先ほどと同じ向日葵の群れしかないように見えました。

「何が見えたの」

彼女に尋ねました。

「向日葵がね、動いた気がするの」

「向日葵が動くわけないだろう。マンドラゴラじゃあるまいし」

Yさんが笑い飛ばしました。

マンドラゴラとは根っこが人の脚の形で、引き抜くと悲鳴をあげ、時にはその二本足で走り回ると言われている植物です。

この時点で私たちは、そのマンドラゴラ以上に恐ろしいものがそこで蠢いていることに気づいていませんでした。

 

「気のせいかしら」

彼女がそう言ってスケッチを中断して、もう一杯お茶を飲もうとしていた時。

私がフィルムを入れ変えて蓋をした時。

Yさんがリュックから三脚を取り出した時。

向日葵たちは蠢いていたのです。

ほんの少しずつ花弁が萎れ、花の中央の無数の種が膨らみ、急速に成長していたのです。

ああ、私たちは気付きませんでした。

 

入り口付近からのアングルで撮ろうと、私はカメラを持って移動しているところでした。

Yさんは三脚を持って向日葵の方へ歩き始めたところでした。

Yさんの妹は腰を下ろしてお茶を飲もうと向日葵の方へ向き直ったところでした。

突然全ての向日葵が枯れて、種が一斉に飛び散り、夥しい数のそれらが凄いスピードで地を這って私たちの方へ向かって来たのです。

そうして、それらはあっという間にYさんに襲いかかりました。

Yさんの身体が蠢く黒い塊に変わり倒れました。

Yさんの妹は私から近かったので様子がハッキリ見えました。

向日葵の種は彼女の皮膚を破って中に入り込み、白い肌に透けて黒くなりました。

かと思うと、見る見るうちに芽を生やし、茎を伸ばして花を咲かせたのです。

それは深紅の向日葵でした。

彼女の身体は栄養豊富な土の代わりをはたしていました。

彼女の頬からも目からも紅い向日葵が伸びていきました。

私は少しの間、腰が砕けたように尻餅をつき、その様子に震えていましたが、慌ててカメラを放り出して逃げ出しました。

踵を返した時、目のはじに横たわるYさんだった黒い塊からも、禍々しいほどに紅い向日葵が無数に生えているのが見えました。

 

Yさんが通した紐の黄色の紐をたよりに私は無我夢中で森の中を走りました。

そうして、その後のことはよく憶えていないのです。

私は気が触れてしまったようなのです。

あれから40年が経ったと医者は言いますが、毎晩夢に見る私にとっては今朝の出来事なのです。

 

「実は1箇所だけ、私にも向日葵に潜り込まれた痕があります」

K氏はそう言って、膝の裏側を僕に見せた。

そこには、直径1センチほどの穴が赤黒く空いていた。

 

 

 

今週のお題「怖い話」