よくあることです。原作と映画やドラマが違うって。映画だけを観て、深読みして、勝手に共感したつもりになっていた自分がかなしいだけよ。
誘拐された乳児が母親だと思っていたのは誘拐犯で、実親の元に戻されるが、家は機能不全家庭。自分の居場所がない。そんな状況で知り合った妻子持ちの男のアタックを拒めずに、妊娠。かつての誘拐犯と共に過ごした場所を訪ねに行く。
子供側から書くと、こんな感じの小説です。
「八日目の蝉」は、自分の感覚を誰かに説明するときに、一番近い作品。私は誘拐されていた訳ではないが、人生の途中から実親が登場したということを説明するのが難しい。
だから、ある時から「機会があったら八日目の蝉を観てちょーだい」と言って、一切合切の説明を放棄してきた。
だが、原作を読んで、私は虚しくなった。映画の時には最後のシーンで盛り上がってしまって、途中経過を冷静に覚えていなかったのだ。
主人公は母親だと思っていた誘拐犯からも、母親失格な実の母親からも「愛されていた」のだ。しかも、それを自覚するのだ。
・・・虚しい。誘拐というセンセーショナルな出来事はないし、メディアであれこれということもないが、私は「愛されて」いなかったので。頑張って思い出そうとしても、せいぜい「祖母にはそれなりの情と少しの良識があった」ということくらい。
だから、結構な割合で、この主人公が羨ましい。
一歳で別れた娘が、約三年後に現れた母親を覚えていないことを、私の両親は気づかなかった。1ヶ月に一度だけ現れる父親が何者か理解していなかったことにも、もちろん気づいていなかった。
両親にとって、ほんの少しの間、田舎に預けていただけのことなのだ。大人の三年と乳幼児の三年はまるで違う。
この主人公のように、完璧に他人に拐われていたなら、或いは気づいてもらえたのではないか。いや、両親の性質の問題だからダメか。
しかも、この主人公には一緒に遊ぶ近所の子供がいたのだ。羨ましい。
私にはいなかった。田舎すぎたのと、なぜだか私は避けられていたのだ。父が嫌われ者だったからかもしれないし、母が余所者だったからかもしれない。いまだに理由は分からない。
最初の幼稚園は遅れて入って、すぐに辞めさせられた。園で私は孤立していた。遊び方がわからなかったのだ。子供番組を観たことがなかったし、幼稚園が何なのかも知らなかった。
結局、何年経っても私には集団生活や集団行動に、馴染むことができなかった。何が変なのか分からないが、小学校から社会に出てさえも、変人という称号を与えられ続けた。
育つ環境って大事だ。
「八日目の蝉は、違う景色を見られる」
大事な一文だ。でも共感できなかった。私は他人様と同じ景色が見たかった。違う景色がどれほど美しいとしても、七日目で一緒に死ぬ蝉でありたかった。
私の八日目は決して美しくなく、むしろ惨くて惨めで荒涼としている。
一つだけ良かったのは、小さな幸せが大きく感じられることだな。
それだけは、ラッキーだと思うことにしている。