特殊環境での子供の感覚
元ネタはこのゴシップ記事。だから真実がどうかとかは関係ない。ただ、コメント欄を読んだところ、通常の家庭で育ったと思われる方のコメントが辛辣すぎるので、書いてみる。
あくまでも、私の経験と、そこからの想像になってしまうので、真実がどうかは責任を持てない。裏どりもしようがないことだし。
人の出入りの多い大家族で、一歳児が同居していない親をどう認識するか。これを私は知っている。
まず、父と母がセットだという認識はない。子供にとって育った環境が「普通」なので、父と母が姉弟だとか、関係ないのだ。
私の保護者は祖母だった。「お父さん」という呼び名の人が月に一度やってくる。そして、一緒に暮らしている「叔父・伯母・叔母」と「お父さん」との区別はぼんやりとしかつかない。私に対して何らかの権限を持っているらしい雰囲気を察する程度。
離れて暮らす実兄と従兄弟の兄ちゃんの区別もつかないし、たまに来る親戚のお姉ちゃんと、よく一緒に過ごす近所のお姉ちゃんとの区別、感覚的には大差がない。
「母親」については、私の場合、いないことを疑問に思ったことはない。何しろ「お父さん」と対の「お母さん」というものの存在を知らないのだから。
4歳児と1歳児の違い
このゴシップ記事によると、長男は母親と連絡を取るようになったが、次男の進次郎氏は云々とある。
長男はうっすらと母親を覚えていても、次男は覚えていないわけで、感覚的に実母を受け入れることは困難だ。本当の親子ならとか、血は水より濃い、などと言う人がいるが、乳幼児にとっては、直接的に自分の面倒を見てくれるかどうか、それだけが保護者かどうかを分ける目印なのだ。
だから、一度手放して、数年後に関係を作ろうとしても、親が相当な気を使い、愛情を示さないと難しい。
別の人を母親だと思っていて、お世話されていたなら、尚更だ。
実際、私はいまだに家族と言う単位が理解できない。親戚ならわかる。お正月や法事などに集まる人々が大体親戚だ。
ただし、父の友人家族だの祖母の乳母だの、ちょっと不明な部分はある。
かように、人の出入りが激しい大家族で両親に育てられない子供は、両親や家族の認識が一般家庭の子と違う。普通の両親を知らないのに、伯母が母親だってことを変に思うわけがない。「お父さん」も「お母さん」も呼び名であって、夫婦なんてことは知らないで育つのだ。
そして、周囲は何故か、子供がわかっているものと思っていることが往々にしてある。
私の両親は、私が両親を忘れていることに、まるで気づかなかった。1歳で離れると、子供は両親を忘れると思った方が良い。
映画「八日目の蝉」を観てくれ
「八日目の蝉」という映画を是非観て欲しい。ドラマではない。井上真央と永作博美のヤツだ。
誘拐されて、誘拐犯を母と思って育てられ、数年後に実親の元に戻される。
本当の親はこっちですよと言われたところで、そこには埋まらない溝ができるのだ。
かといって、自分を誘拐した人間を元どおりの「お母さん」とは思えない。
ここに、精神的に母親のいない子が出来上がる。「母親」と言うものがわからなくなってしまっているから、自分が母親になるのも不安だし怖い。
それで、誘拐されていた場所を訪ねて歩くという映画になっているのだ。
親の方にもわだかまりがある。知らない間に自分が嫌い、許しがたいと思っている人間に育てられちゃった我が子。
何かにつけて、嫌な気持ちを思い出すのだろう。私の母親は、祖母の悪口を盛りだくさん私に聞かせた。そして、私がいかに祖母に愛されてなかったかを事あるごとに聞かせた。
私自身についても「ばあちゃんに甘やかされたから」「ばあちゃんに似ちゃって」と散々、悪口雑言を浴びせた。
自分の旦那を寝とった女だろうが、仲の悪い姑だろうが、懐いてしまっているのが気に入らない。
ま、そう言うものだ。
小泉家はどうだったか想像する
女系家族だったとある。それならば、後継である純一郎氏としては、たくさんの物を諦めなければならない。政治家になるように洗脳されて育てられているのに、出て行った嫁を追っていっては、政治家を放棄することになる。
それは家族だけではなく、後援会など他人様にも迷惑をかけることになる。
だから、嫁選びも与えられるがまま、去る者も追えない。そういうことだと思う。
そりゃ、守ろうと思えば守れたかもしれない。しかし、もともとただの見合いではない。政治家としても基盤を安定させるための結婚である。
家の女性陣に追い出されるならば、もうダメなのである。
その後再婚していないところを見ると、純一郎氏なりに考えて、被害者を増やさないことにしたのではなかろうか。
その伯母にしても、実は罪悪感があって、必死に育てたのではないだろうか。
出ないけれどお乳を吸わせたエピソードを「気持ち悪い」と言うコメントが散見されたが、不本意でも、子供たちの精神面を考えたら、そうせざるを得なかったんじゃないだろうか。
そうあって欲しいと言う、私の個人的な希望も入っているが。
特段、小泉家に思い入れがあるわけではないし、支持者でもないが、世間が常識を振りかざす時、何か言いたくなる性分なのだ。気分を害された方がいらしたら、許されたい。
ゴシップでなくとも記事が真実とは限らない
昨今のネット環境を見るに、ゴシップ記事に自分の基準で批判コメントをするのに、疑問を持っている。
一般人に元ネタの裏どりなんて、そう出来るものではないはずで、ならば、その記事を真実として広めるのは危険だと思うのだ。
悪意のない、むしろ善意の人々の攻撃は、広まりやすい気がする。
また、事実と真実は異なるし、個々人の捉え方も違ってくる。事情も色々あるだろう。だから、こうして私が綴ったことさえも、ただの妄想であるかもしれないわけで、信じてはならない。
明るい話題についてのみ、明るく「いいね」と言っていた方が、誰もがハッピーでいい気分でいられるんじゃないか。
事なかれ主義の私はそう思うのだ。