おこもりさんも大海の夢を見る

諦めず、焦らず、時に倒れても海を目指して、ほふく前進する引きこもりの雑記ブログ

8才で人生の選択を迫られた

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「迷いと決断」というお題には余りにも、幼い時のことなので

相応しい話ではないと思うが、まあ決断には違いない。

 

小学校2年生の時のこと。

我が家は一時的に貧乏だった。

父が新しく仕事を始めたばかりのところに、祖父が入院して、

その仕送りの額がなかなかのものだったからだ。

それでも、私はそろばん、習字、公文と、習い事はしていた。

まあ、極貧ではなかったということだ。

 

しかし、ある日、真剣な顔をした両親が私を呼び、正座させられた。

父が話し始めた。

「もう2年生なんだから、自分の人生は自分で決めなさい」

何のことかわからなかった。人生なんてことも分からなかった。

「いつも、ヨックモックをくれるおじさん、分かるな」

それは仕入先のメーカーの社長さんで、来るたびに私にヨックモックの

詰め合わせをくれるのだ。

私が頷くと、続けて父は質問をした。

「あのおじさんの家の子になるか」

「!?!?!?!?!?!」

意味が分からなかった。ただ、私はまたもや捨てられようとしている。

そう感じ取った。

 

私は別に「おしん」の時代の人ではない。

この話も1970年代のことだ。

それに、私はヨックモックのおじさんの家に行ったこともなかった。

だから戸惑った私は、知らないところへ行くのが嫌だったので、

首を横に振った。

父は「わかった」とだけ言って、私を部屋に戻した。

さらにショックを受けたのはこの後だ。

私が部屋に戻る時、扉のところで母がこっそり言ったのだ。

「お前はバカだね。あそこん家の子になれば贅沢できたのに」

 

忘れもしない。忘れられようはずがない。

私を捨てようとしていたのは母親だったのだ。

母が働くために、1才の妹は母の遠い実家に預けられていた。

確かに私が名指しでご指名を受けたようで・・・というのも、

おじさんの奥さんが私を見て「女の子なのにかわいそう」と思ったという。

塾には行かせても衣類は与えないという家だったので、

私は栄養失調状態で、服はボロボロ、頭もボサボサだった。

 

それから数ヶ月で祖父が亡くなり、妹も帰ってきた。

我が家の経済状態も良くなり、しばらくすると家と事務所を増築するほどになった。

なのに、私への心理的・肉体的・経済的虐待は頻繁になり、過酷になっていったのだ。

 

たまに、2年生の私は判断を間違えたのではないかと思った。

しかし、その時の情報量では、残る以外の選択はあり得なかった。

そして、養女に行かないと決めたのは自分なので、誰を怒るわけにも行かなかった。

 

だが、後年、私は腹が立った。

小学校2年生。8才だった。

ものをもらうことはあっても、挨拶以外に話したがことがなく、

その奥さんにも会ったことが無く、家も知らない。

何の情報もないまま「選べ」と迫った両親がおかしい。

考える時間も与えられなかったし。

おそらく、母は育てにくい私を手放したがり、

父は男児を猛烈に望んでいて、女だからいいかと思ったんだろう。

 

母親はまあ酷いが、父も父だ。

8才の子供に「人生」が決められようか。

母だって、正社員ではあったが、残業なんてほとんどない職場だった。

その程度で子供を余所にあげちゃうのか。

まあ1歳の私を遠くへ預けて数年間ほったらかした前科があるしな。

つうか、贅沢したくて「養女に行く!」なんて8才が言うか?

貧乏でご飯が食べられなかったわけじゃあるまいし。

栄養失調はストレスで拒食症っぽくなってただけだから。

(これも問題ではあるけれど)

 

数年後にヨックモックのおじさんの家には子供が産まれた。

だから、そこの家のためには、養女に行かなくて正解だったのだろう。

しかしその後の悲惨な日々を思うと、自分のためには

養女に行っておいた方がマシだったのかもしれない。

両方を実行することができない以上、後から考えても意味はない。

 

その時その時で、精一杯の決断をしてきた。

後悔はしようがないのだ。