おこもりさんも大海の夢を見る

諦めず、焦らず、時に倒れても海を目指して、ほふく前進する引きこもりの雑記ブログ

ワーカホリックの私にバイバイ

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 迷っているヒマはない。生きるということは選択の連続。

 そして、時々は選択よりもちょいと大きな「決断」をする場面がある。

 

『仕事に生きよう』

 よくある話だが、25歳で婚約破棄の憂き目に遭い、私は結婚は生涯せず「仕事に生きる」ことを決断した。

 仕事と家庭を両立させるために、私は職務内容も待遇も妥協した転職をしたばかりだった。婚約破棄で悔やまれたのは、この転職だった。

 

 ところが、婚約破棄の手続きはスムーズにいったものの、人間関係でゴタゴタし、私は更なる転職と転居をせざるを得なくなった。

 バブルはとうに弾けて、就職氷河期が目前に迫っていた。首都圏では女性の転職雑誌は主に2誌あったが、どちらも雑誌自体の厚みがなくなり、ひとつは最早雑誌というより冊子になっていた。

 しかも当時、25歳女子というのは企業が採用を躊躇する年齢でもあった。その上、私は高卒で、いくつかの検定試験や免許は持っていたが、特別なものではなかった。面接に漕ぎ着けても落ちて、落ち続けて、疲れ果てた頃に、履歴書を送ったまま忘れていた企業から電話があった。

 

『転職はご縁だ!』

 私が応募したのは手違いで出した募集広告だったらしい。ところが急に事務方の社員が辞めてしまったので、人事の手元にたまたま残っていた私の履歴書に白羽の矢が立ったのだ。待遇は良くなかったが、不況の中、小さいけれど創業40年なら倒産することもなかろうと、即入社を決めた。

 しかし、入ってみたらこの会社、新規に社員を雇っている場合ではないほど、財政が悪化した倒産寸前、風前の灯火ともいえる経営状態だったのだ。ヤバいかも。

 

『短大卒の資格を取る』

 入社はしたものの、直属の上司は経理と電算室を兼務しており、忙しさのあまり、私に仕事の説明ができない。で、私の仕事は少なかった。毎日余裕しゃくしゃくで定時帰り。月の残業代400円。

 ちょうどその頃、妹が短大へ行くことが決定したので、私は高卒であることで、自分が卑屈になるのは嫌だなと思った。それに、高卒では次の転職が厳しくなるであろうとも思った。たまたま職場近くに通信の短大があり、そこへ行くことにした。

 これは体力のない私にはキツかったが、一年間でスクーリングを少々残し、他の単位を取り終えた。

 

 ここから私は、バリバリガツガツ働くことになる。上司に食らいついて、仕事をもぎ取り始めたのである。

 

『パソコンを購入する』

 会社が倒産寸前から浮上してきた頃、アナクロな会社なのに、社長の机にパソコンが置かれた。これを見た私は、パソコン、すなわちマイクロソフトオフィスとインターネットが使えなくては仕事にならなくなるであろうと、アンテナが動いたのを感じた。

 教室に通うには仕事が忙しくなっていたので、パソコンを買って自力で覚えることにした。どうせ買うなら、社長と同じ機種だ。手痛い出費ではあるが、これは未来への投資なのだ。

 私は財布をスッテンテンにして、賭けに出たのだった。

 

 これ、大当たりだった。業績がアップしてきたため、その後、社内がどんどんデジタル化していったのだ。

 私は、他の社員にパソコンを指南するという役割を手に入れた。会社での居心地が飛躍的に良くなったし、仕事がしやすくなった。

 

 私はパソコンを駆使して「仕事人間」の道を爆走していた。経理、電算、総務補助、その他諸々・・・。休日出勤、深夜残業、持ち帰り仕事。頭の中から仕事のことが消えた日はない。

 それが数年続いて、私は壊れた。体はとっくに壊れていたのだが、決定的に精神が壊れたのだ。自律神経もぐっちゃぐちゃ。

 会社と話し合い、仕事量をセーブしてもらいながら治療することになった。

 

 医者には、過剰な仕事と向上心と完璧主義を直すよう言われた。とにかく頑張ってはならない。治療さえ頑張ってはならないという。もう、どうしていいか分からなくなっていた。

 趣味をするのは良いと言われたが、当時の私は、仕事が趣味に、趣味が仕事になってしまっていた。例えば、趣味で作っていたホームページで得た知識は、会社のホームページ制作をすることになってしまったし、たまに好きでやっていた画像を作ることは、会社の新規事業のリーフのデザインをする、なんてことに。

 

『泳げないのにダイビングに挑戦』

 そんな中、まるで気乗りがしない社員旅行の行き先はサイパン。日焼けが嫌で、水に濡れるのが嫌いなのに。しかも、先輩のお付き合いで体験ダイビングをすることになった。お姉様のお誘いを断るなんてあり得ない。

 私は泳げなかった。しかし、これも仕事のうちである。昭和のド根性を背負っている私は、腹をくくって潜った。

 

 そこは・・・・パラダイスだった!新しい世界への扉が開いた瞬間だった。潜っている間、私は仕事のことも含め、何もかもを忘れることができたのだ。

 私は鼻血が出そうなほど興奮した。実際、興奮のあまり、私は体調を崩した。五日間も毎日病院で点滴を打っている間、ダイビング雑誌を眺めていた。

 

 もう、お分かりだと思うが、私は即断即決、目的に向かって一直線な人である。

 なので、サイパンから帰ったのが7月初旬で、7月末にはライセンスをとり、その2週間後の夏休みには、フル装備を携えて沖縄の海で潜っていた。合間に、プールに通って、少しは泳げるようにもなっていた。

 

 私の体調は行きつ戻りつしながらも、寛解に向かった。ダイビング雑誌をめくりながら、あっちも行きたいこっちにも潜りたいと、欲深な性質と南の海が私を健康に導いてくれたのだ。

 仕事は回復と共に少しずつハードに戻っていったが、目一杯やらないスタイルが身について、余計な仕事は断り、残業をほどほどにしたし、持ち帰り仕事もやめ、家での過ごし方も変わった。

 

 何でもやってみるものだ。何が自分の人生を心地良いものにするかなんて、やってみなきゃ分からない。ひとつのことに打ち込む人生もあるのだろうけれど、私にはバランスをとった生き方の方が合っていた。

 だから私はワーカホリックの自分に、爽やかな気持ちで「バイバーイ」と言えたのだろう。