なんじゃそりゃっ!
たった今、ツイッターから知り得た記事。
「フクシマ忌」という単語を見た瞬間に、怒りと涙が溢れ出た。
こんな個人の読者がすっくないブログでも、これは書かなくてはならない。
新聞に投稿するとか、他にも方法はあるだろうが、とりあえずは、ブログ。
以下、感情的なので、文章酩酊状態で、論理破綻しているかもしれないが、
今の私が、精一杯怒りを抑えて表現する、正直な気持ち。
勘違いだったり、自分の方がおかしいと納得したら、訂正もしくは削除する。
私は歳時記について全く知識がない。広島忌だの長崎忌、関東大震災の震災忌。
そんなものの存在を、知らなかった。当然、使ったこともない。
それらにとって私は地理的にも時代的にも部外者だ。
だから、ここでは「フクシマ忌」についてのみ、書く。
私は今、そこにいない。当時もそこにいなかった。
今、当時、そこに暮らす人々にとっての感じ方とは全く違うだろう。
私のアイデンティティは、私が私である基盤は、ギリギリのラインで、
いわゆる30キロ圏内の小さな集落にある。
だから、津波はショックだったが、それ以上にF1の一連の出来事は、
言葉にできないほどの衝撃だった。
山は除染されず、先祖代々の井戸水がどうなっているか分からず、
土地も国に大半が買い上げられて、景色もすっかり変わった。
個人的なことではあるが、私にとって、それは親が死ぬよりキツいことだった。
親は生きているが、その親が死ぬまでは、私は故郷に帰れない。禁じられている。
けれど、人生の最後は、あそこへ帰るのだと、自分に言い聞かせ、生きてきた。
ひどいホームシックを長年抱えてきたのに、それが永遠になった。
そんな私が「フクシマ忌」なんて言葉を、スルーできようもない。
なんだそれは。
いつの季語なんだ。フクシマって広いんだけど、範囲はどうなっているのだ。
何を持って「忌」とするのか。何に対する「忌」なのか。
その言葉を使う必要性があるシチュエーションが存在するのか。
誰も死んでいないとは言わない。確認していないから。
もしも、F1が原因であると確定している死者がいるとして、亡くなった日も
原因となった日もバラバラであろうから「忌」という文字を持ち出すのは、
的確ではないはずだ。
ああ、理屈っぽくなっている。
ぶっちゃけて言えば、理論も論理もどうでもいい。
もう、いいや。その季語、使うなら使え。
ただし、覚悟して使え。使わなければならない、避けて通れない事由、
それを使うことが的確である事由を問われた時に、答える用意をして使うことだ。
何かを「悼む」心は尊いし、科学的な記録を残す必要もある。
私は、怒りと哀しみと喪失感を、叫ばずにいられないので、詩を書いたし、
今後も書くだろう。
「フクシマ忌」にせよ「原発忌」にせよ、俳句で表現する場合、
それは必要な季語なのだろうか。
その季語によって、読み手に何を感じて欲しいのか。
俳句を知らない私には理解できない。
私は、今後歳時記に、そんな言葉が掲載される日が来ないことを祈るばかりだ。
もしも、歳時記に掲載された時には、出版社にあれこれ問い合わせようと思う。
以上!